2008年12月23日
苦難を乗り越えて
横浜は開港して以来、世界につながる港として大きく発展しました。
でもその道のりは非常に険しく、関東大震災、戦争、連合軍の占領・・・などのさまざまな苦難がありました。
1923年9月1日、マグニチュード7.9という大地震が横浜を襲いました。
開港以来、60年間に渡り築いてきた横浜の街は、この大地震とそれに伴う火災により、大被害を受けたのです。
ところが、奇跡的にも開港記念館の時計塔は壊れませんでした。その立派な姿に、多くの人が勇気付けられたのです。
山下公園は震災で崩れた建物のがれきを集めて、それで海を埋め立ててでき上がりました。
そしてこの山下公園を会場として、1935年3月~5月に「復興記念横浜大博覧会」が開かれました。
山下公園の前に、大きないけすを造り鯨を泳がせた「生鯨館」や、アメリカをはじめとする様々な国のパビリオンは人気を集めました。
来場者は、300万人にも上りました。
戦時中の横浜といえば、1942年~1945年に連合軍により、30回も空襲にみまわれ大変な被害を受けたのです。
そして敗戦と同時に、連合軍によって横浜港や横浜市内のあちこちを占領されて、経済面においても大きな打撃を受けました。
今でも市内にアメリカ軍の基地が残っていますが、「深谷通信所」や「上瀬谷通信施設」などは、近い将来日本に返ってくるそうです。
このような苦難を乗り越えてここまで発展したのには、当時の人々の努力のおかげです。
横浜の街を支え続けた人々のおかげで、現在の大都市横浜が存在するのです。
でもその道のりは非常に険しく、関東大震災、戦争、連合軍の占領・・・などのさまざまな苦難がありました。
1923年9月1日、マグニチュード7.9という大地震が横浜を襲いました。
開港以来、60年間に渡り築いてきた横浜の街は、この大地震とそれに伴う火災により、大被害を受けたのです。
ところが、奇跡的にも開港記念館の時計塔は壊れませんでした。その立派な姿に、多くの人が勇気付けられたのです。
山下公園は震災で崩れた建物のがれきを集めて、それで海を埋め立ててでき上がりました。
そしてこの山下公園を会場として、1935年3月~5月に「復興記念横浜大博覧会」が開かれました。
山下公園の前に、大きないけすを造り鯨を泳がせた「生鯨館」や、アメリカをはじめとする様々な国のパビリオンは人気を集めました。
来場者は、300万人にも上りました。
戦時中の横浜といえば、1942年~1945年に連合軍により、30回も空襲にみまわれ大変な被害を受けたのです。
そして敗戦と同時に、連合軍によって横浜港や横浜市内のあちこちを占領されて、経済面においても大きな打撃を受けました。
今でも市内にアメリカ軍の基地が残っていますが、「深谷通信所」や「上瀬谷通信施設」などは、近い将来日本に返ってくるそうです。
このような苦難を乗り越えてここまで発展したのには、当時の人々の努力のおかげです。
横浜の街を支え続けた人々のおかげで、現在の大都市横浜が存在するのです。
Posted by こたろー at 00:42│Comments(0)
│横浜の歴史
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。